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来賓室片山理絵さんのマオンパ・ニュース

 更新日 2007年11月1日

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最後のマオンパニュース

〜マオンパを去る日〜 Nov. 1st, 2007

 

人生山あり、谷あり。物事を成そうとする時には、障壁があるのは当たり前。それでも「細く長く」やっていると、何かしらの結果が出るのではないか、と凡人の私なんかは思うのですが、それを他人に伝える難しさを学び、組織の一部として動く事の難しさを知り、9月の終わりにマオンパを去る決心をした。

以前にも書いた様に、マオンパはダニダ(デンマークの国際協力機構)の支援を得て、ブータンの伝統織物を用いて洋服等の、「今までにブータンに無かったものを作り出していこう」という目的の元に設立された。私達2期生の卒業を持って、プログラム自体は終了したが、その後、コースの評判の良さから、ブータンの伝統工芸学校の正式なコースとなり、期間も3年となった。しかし、新入生がコースに入学すれども、政府からの予算は殆ど付かず、国連の新規プログラムの一つから予算が付くという話があるにも関わらず、学校側からは誰もブータンの国連事務所に出向いて話し合う機会を持とうとしなかった。

痺れを切らした私は、国連側のプロジェクトコーディネーターと話しをし、国連事務所の副代表と話しをし、そして当時の校長先生と話しをし、やっとミーティングが開かれる事となった。国連側のコーディネーターの希望で、私も出席したミーティングで、正式に予算が付く事が決まり、今後その内容を詰めて行く事となった。

現在のブータンは、来年から発足する議会民主制度へと移行する過渡期の大混乱の中にあり、多くの官僚が政治家として立候補する為に、職場を離れ、省庁の事務機能自体が半休止状態にある。マオンパが所属する伝統工芸学校は、学校が所属する課の局長、その省庁の事務局長、大臣、そして学校の校長が、ほぼ同時期に職場を去った為、かなり不安定な状況に陥っていた。

その混乱の中で、私達のプロジェクトに関するミーティングが開かれ、生憎その頃大風邪を引いていた私は、ミーティングに参加する事が不可能だった。

2週間後、学校に出向いたときには、プログラムの内容全てが変わってしまっていた。マオンパは無くなる事となり、学校内での作品の販売も禁止、そしてコースは、「ブータンの伝統工芸に関するテーラリング」となっていた。

コースの指導員として、学校に雇われているドルジは、朝から私に不平・不満をぶちまけていたので、彼を連れて直ぐに私は学校側のコーディネーターに説明を求めた。3時間に及ぶミーティング中、何度かドルジに意見を求めたのだが、「別に意見はありません」を押し通し、何一つ彼は自分の意見を述べなかった。

そして時を同じくして、去年から私達が貯めていた「マオンパ基金」の使い込みが発覚。師匠がいなくなった後、私以外の現メンバー全員が自分達の飲食代やタクシー代として、基金を使い込んでいたという事実に、私は愕然となった。

マオンパを残す為にいろいろと駆け回っている自分が、何だかとても馬鹿げている様に見えて、「何故私はここでこんな事をしているのだろうか」という疑問が私の中で大きくなり、物事をポジティブに考えられなくなってきていた。恐らく自分がここでやろうとしている事は、時期尚早であり、マオンパメンバーもそこまでやろうとする思いが無いという結論に辿りつき、悩んだ末「マオンパを去る」という決心をした。

今回、短い間だったが、マオンパというグループに属し、伝統工芸学校で勉強する機会を与えてもらえた事は、技術面だけでは無く、ブータンという国(社会)を様々な角度から見る機会ともなり、とても勉強になった。この経験を通して、自分がこの国でどういう事をこれからしたいか、そしてどういった形でこれからこの国に貢献出来る可能性があるか、という事が少しずつ見え始めてきた。

マオンパを離れて一ヶ月。今やっとすっきりとした気持ちで、最後の「マオンパニュース」が書けた。私は今でもマオンパのメンバーが大好きで、彼らと知り合えた事を有難く思っている。3年後に又会いましょう、と彼らに伝えた。その時、メンバーの中の一人でも同じフィールドでの仕事を続けていたら、又何か一緒に出来るかも知れない。組織の一部に属するのでは無く、自分達で責任を持って出来る何かが。。。。

 

ブータンの公用語、ゾンカで「将来」という意味の「マオンパ」。今私は又新たな出発点に立って、メンバーのこれからの活躍と将来を楽しみにしている。

(終)

 

追記:ドルックエアーの機内誌、「タシ・デレ」10月〜12月号に、主人が書いたマオンパに関する記事と写真が数ページ掲載されております。ちなみに娘(天海)がモデルとして参加した、去年のファションショーの写真も何枚か載っております。

今回を持ちまして、マオンパニュースは終了となります。「ブータンに関する雑記」と「子育て奮闘記」は続く予定ですので、引き続き読んで下さると嬉しいです。有難うございました。

 

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ブータン子育て奮闘記 3

「何かをしたいんです!」 Sep.4th, 2007

どこの国であっても、子供が病気になる事程、親が心配し、心を痛める事はないと私は思う。特にここブータンは、旅行会社のパンフレットに謳われている「最後の楽園」かも知れないが、経済的には最貧国25カ国に入る貧しい国であるので、医療面の整備といった所は、まだまだである。

2年以上前の事になるが、突発的に早朝娘が熱を出した。しかもかなり高い熱で、ふと気づくと息をしていなかった。私は自分が今目にしている光景を信じたくなかったので、一瞬自分が夢にいるのかどうか、分からない感覚に陥った。主人は素早く娘の脈を見、どれだけの時間息をしていないか時計を見ていた。

私も電話を掴み、義母に電話し、近くのブータン軍病院の先生に来てもらえる様にお願いした。その電話の最中に、娘は息を吹き返した。張り詰めていた気持ちが、ドッと抜け、私はその場で泣き崩れてしまった。

早朝にも関わらず、直ぐにお医者様が来て下さり、義母もその後到着し、(ここがブータンらしいが)お坊様が悪霊を追い払う儀式を執り行い始めた。それから3日間、娘は24時間点滴が外せない状態となり、忙しい中お医者様は、毎朝・毎晩来て下さり、主人と私は交替で、付きっ切りで看護した。

そして、ようやく4日目の朝、微熱まで下がり、様態も落ち着いた。重湯を全部食べた時には、涙が溢れて仕方無かった。同日、病院に行って点滴を取ってもらう事となった。案内された部屋は、小児科病棟にあるICU(集中治療室)がガラス越しに見える先生の部屋だった。そこには、娘より少し大きい男の子が横たわっていた。母親は、その子の手を握ったまま頭を抱え、父親は落ち着かない様子で、ベッドの側を行ったり、来たりしていた。

私の膝に座り、ここ数日の出来事が無かったかの様に私に微笑で話しかけてくる娘に目を落とした時、私の目から大粒の涙が零れ落ちた。診察室に入って来た先生が私の尋常でない様子に驚いていたが、ICUにいる男の子は高熱から、髄膜炎を引き起こしている、と説明してくれた。

泣いているだけで、何も出来ない自分が悔しく、惨めに思えた。その時、将来ブータンの子供達の医療環境の改善の一助となるべく何が出来るか考えよう、と強く心に誓った。その日のうちに、その男の子は、インドのカルカッタへと救急搬送された。

現在のブータンでは、基本的に医療が全て無料である為、子供達の為だけの医療基金と言ったものが存在しない。重病の患者達は、インドやバンコックへと搬送されているが、その患者数が増えている為、将来これは限界がある様に思う。来年から始まる議会民主制の導入により、どういった方向に変わって行くのか、その枠組みの中で、どういった事が出来るのか、現状を見据えながら、少しずつでも将来何かが出来れば、と思う。

 

追記:

ちなみに、数ヶ月後、ICUにいた男の子は、後遺症も残る事なく、元気にカルカッタの病院を退院し、ブータンに帰って来たそうです。(本当に、良かった!)

 

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「マダム、クリエティビィティー(独創性)って何ですか?」 Aug.26th, 2007

ブータンは社会文化的にトップダウンの傾向が非常に強い。教育現場はその典型であり、基本的に先生が言う事をひたすら覚え、模倣していくというのが正しい姿勢とされている。殆どどんな場面でも先生が正しく、先生に意見を述べると言う事は皆無に近い。

私が通う伝統工芸学校でも、その教え方は同じで、先ずお手本をひたすら模倣する事から始まり、完成度の高さは、如何にそのお手本に近い物を仕上げていくか、の一点により評価されている。

しかし、私達のデザイン・モダンテイラーリングコースは評価の対象が他のコースとは違い、縫製技術の向上プラス、自分なりのアイデアを展開し、ファションという分野での独創性を少しずつ身につけていく必要があるのである。

3〜4月の二ヶ月間、デンマークからファションデザイナーが、ボランティアでブータンに来て、私達に教えてくれた時に、そろそろこの国においての、独自の視点による教育改革が必要な時期に来ている、という事を強く思った。

先ず私達は、「色の組み合わせ」というものを、そのデザイナーさんから習った。ブータンの民族衣装においては、全く正反対の色を組み合わせても、何故か全体的には巧くまとまって見えてしまう為、「どうして似通った色を組み合わせるのが洋服では良く見えるのか」、という所がクラスメートにはなかなか理解しづらかった。もちろんどんな色の組み合わせの服を作っても良いのだが、最終的には売れないとビジネスには繋がらないので、そこはやはりお客様が好みそうなものを頭に入れておく必要があるのではないか、という事でそこはまとまった。

そして、「コラージュ」という技法も習い、あるテーマを基にして、写真や絵を貼ったり、そこから自分なりのイメージをおこしたり、「ブレーン・ストーミング」から、逆に自分のイメージを湧かしていくという事も習った。

4月に第二回目の大きな試験があり、

自分で幾つかの写真を選び、ブレーン・ストーミングをし、

それを基にイメージを起こし、何点かのファション画(デザイン)を描き、

そこから一点を選び、製品図を描き、

その製品の型紙を作り、

自分でそのイメージにあった布を選び、製品を作る

という内容で、5日間の試験があった。 これは正直かなりきつい試験だった。この期間、主人が娘を見てくれたので、何とか製品の完成までこぎつく事が出来たが、ここまでのストレスは久しぶりだった。皆朝早くから夜遅くまで学校に残り、がんばっていた。

しかし、そこで気づいたのだが、殆どの生徒がいきなり型紙の製作から始め、縫製に取り掛かっていた。プレゼンテーションの場で、どういった過程から、製品の発想を得たかを発表する必要があるので、「ねぇ、それって過程が逆なんじゃない?」と尋ねると、「そうなんですけれど、アイデアが全く浮かばないんですよ。」と紳士用のブレザーを作っているニーが、恥ずかしそうに答えた。ドルジが横から、「オリジナリティーとか、クリエティビティーとか言われても、僕らにはよく分からないんです。学校ではそんな事を習いませんでしたから。」と皆の気持ちを代弁したかの様に言った。

現国王は、これからの若者達に期待するものとして、「独創性」「斬新さ」「新事業」を挙げているが、新しい発想というものは一夜にして生まれるものではなく、ある程度の訓練と、枠にとらわれない考え方や意見を受け入れる環境が必要条件となる様に思う。

「独創性に富んだものを。。。」と言われても、情緒を伸ばす場としての「音楽」や「美術」の時間が全く無い教育を受けている彼らには難しい様に思う。そろそろ教育改革に真剣に取り組む時期に、ブータンも来ているのではないか、と思う今日この頃である。

 

*伝統工芸学校で勉強をさせてもらっている私の写真が、ニューズウィ−ク日本版8・15/22(夏季合併号)に載りました。「おかちめんこ」に似ている自分の写真にはがっくりしましたが、海外10カ国、様々な国で人生を謳歌されている日本人の方々の記事を読んで、私も元気が湧いてきました。これからもブログを続けていきたいと思いますので、今後ともどうぞ宜しくお願いします。

 

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ブータン子育て奮闘記 2

「アルファベットは恐竜になるんです」

 

先日日本のある地区で、障害児とみなされている子供達の成績を外して、平均値を出したという記事を読んだ時、ある方のミクシィのコメント欄にあった、アメリカ社会の障害者に対する

下記の引用を思い出していた。

「障害者というのは社会が作るもので、それはその人にとっては障害ではなくひとつの個性だと。しかし、社会がその人を障害者にしてしまう、と。」

ここ数年日本で頻繁に取り上げられているADD(アテンション・ディスオーダー・ディフィシット)。

この子達も障害児というレッテルを社会は貼っているのかな?でも、障害児と健常児の境とは、どこにあるのだろうか?

さて話は「窓際の天海ちゃん」。前回にも書いたが、彼女は独自の世界を持っているらしく、自分の興味のある事と無い事が、とてもはっきりしている。

例えば、彼女はコンピューターに興味があるらしく、自分が好きなソフトウェアーを入れ、操作もほぼ独学で覚え、コンピューターをスタートさせ、ゲームや物語を楽しみ、そして終われば、プログラムを終了させる。

ゲームと言ってもアクションものでは無く、物語や歌、アルファベットなどの学習教育的要素が高いものしか家に無いので、それで遊んでいる。

コンピューターの操作で行き詰れば、主人か私を呼ぶが、彼女はいろいろと試しながら操作を一人で覚えている様である。(しかし、たまに取り返しがつかない事もやってくれ、先日はコンピューター内のソフトウェアープログラムが、全て動かなくなり、新たにインストールをしなければならなくなった。)

しかし、その天海。どうも学校の勉強のやり方には、全く興味が無いみたいで、教室内を立ち歩き、先生の指示にも全くと言って良い程従わない。

「ADDの傾向あり」と診断されても、全くおかしくない、と私は見ている。

そして先日中間試験があった。口答試験が毎日一科目ずつ、四科目四日あり、続いて筆記試験が一日一科目二時間あった。

スケジュールと試験内容が、事前に親元に配布され、筆記試験初日は英語という事で、主人が教える事にした。

「天海、先ずアルファベットを順に書いてみよう。」「嫌だ。」もう顔がしっかり嫌がっている。

「でも明日から試験だから。」しぶしぶ座り、「A,B,C」と書き始めた。「C」までは、よく書けている。

しかし、「D」から何だか形が怪しくなってきた。「E」に足が生えてきて、「F」には目や耳。「G」はもう形をとどめていなく、全く違ったものに口がある。

こんな調子でアルファベットは続き、「出来た!恐竜達の行列。天海の世界よ!」私は思わず大笑いしてしまった。

カルマが「ぎろっ」と私を見たので、笑いをこらえたが、「我が子ながら、この発想はなかなかユニーク」と思わず感心してしまった。

それからしばらくカルマはがんばって天海に教えようとしたが、ずっとこんな調子で、結局無駄な努力に終わった。

「これはテスト駄目だろうな〜。」と二人を見ながら、私は思っていた。

次の日、相変わらずはりきって天海は学校に行き、満面の笑みで帰って来た。「テスト、どうだった?」とカルマ。

「出来た!」と天海。「何がテストに出てた?」「何もテストに出ていなかった。」「・・・・・・」それ以上尋ねても返答は同じと分っているので、カルマも私も尋ねなかった。

この結果は今から一週間後に親が学校に行き、クラスの先生から直接渡される。

カルマには悪いが、私は彼女の成績を心配するよりも、彼女がテスト用紙に何を書いたかが楽しみで仕方無い。

どんな「天海ワールド」を描いてくれているだろうか?

数字だけでは評価出来ない、彼女の「個性」がそこにはありそうだ。

 

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「師匠がブータンを去った日」 Jul.5th,2007

私達マオンパグループを立ち上げ、デザイン・モダンテイラーリングコースを、伝統工芸学校の正式なコースとして認可されるまで引っ張った我が師匠が先日ブータンを去った。ご主人の次の赴任地はフィリピン。同じアジア圏だが、ブータンから遊びに行くには、、、、遠い。

彼女と知り合い、一緒に過ごした四年間で、私はテイラーの技術だけではなく、人生の生き方においてもいろいろと勉強させてもらった。こういった人との巡り合わせというものは、その人に必要な人を、必要なタイミングで与えてくれるものだと私は思うから、彼女と引き合わせてくれた神様に、今心から感謝している。

「何度も言っていて、聞きたくないかも知れないけれど、ホッパーはもっとビジネスというものを学ばなければ駄目ね。この世界は甘くないんだから。」と師匠がブータンを離れる数日前に、車の中で突然こう切り出された。「ホッパー、あなたは私の友達だから又言うけれど、経済的に独立しないと駄目よ。いつまでもカルマ(私の主人の名前)に頼っていると、思考や行動まで制約が出てくるでしょ。自分のやりたい事が出来なくなるわよ。技術を早く身につけて、経済的に独立しなさい。」

私はこの助言をとても彼女らしい意見だと思いながら、その時聞いていた。べトナムという厳しい社会環境の中、自分の腕一つで店を立ち上げ、家族を支えてきた。職人(プロ)であり続ける彼女は決して妥協しない。何故なら、彼女の中では「妥協イコール負け」という方程式が成り立っているから。

「ホッパーは本当に頑固よね。私の言う事を一つも聞かない。」と、よく師匠が私の事を怒っていたが、ビジネスにおいての私のアプローチは、恐らく師匠とは違ったものになるように思う。ブータンの織物に関わりながら、どういう風なビジネスを将来展開していきたいか、今の時点においては、はっきりとしたプランは未だ無い。ただブータンという国に何かしら良い形で貢献する事と、自分の好きな事を繋げて、利益を出すという事は可能だと、私は今信じている。

師匠が去る前日、「私宛にプレゼントがある」という事を電話で伝えてきた。彼女が去った数日後、家に行ってみると、そこには彼女が愛用していたべトナムの手製の布切りばさみがメッセージと共にあった。「いつか師匠に認められる様に、がんばって続けていこう!」とそのはさみを手にした時、強く思った。今まで本当にありがとう!

 

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ブータン子育て奮闘記 2007-6-12

「窓ぎわの天海(ティエール)ちゃん」

「窓ぎわのトットちゃん」−現在ユニセフ親善大使でいらっしゃる黒柳徹子さんの有名な自伝小説、現在この本は、私のバイブルとなっており、娘の事で落ち込む度に、何度も何度も読み返している為、もうボロボロになっている。

娘を知っている方なら頷いてくれると思うのだが、来月5歳になる娘は、小さい時から(と言ってもまだ小さいが)年齢の割りには独立心が強く、意思表示がはっきりしていて、自分のしたくない事は、どんなに脅かされてもしない。陽気で社交的な子供である為、新しい環境に溶け込む点は、(親が言うのも何だが)かなり高い能力を持っている反面、集団行動を極端に苦手としている。

さて、この天海ちゃん、現在私立の小学校のPP(プレプライマリー)という準備学年クラスにいるのだが、やはりそこでも相変わらずの天海ぶりを発揮している。

先日、「オープンハウス」という、父兄が学校に出向いて、日頃の学校での子供の様子を担任の先生と個人的に話したり、子供のノートやテスト等のファイルを見せてもらうという機会があった。

その日主人がいなかった為、私一人で学校へ出かけた。開口一番担任の先生が、「天海ちゃんは、進歩しました。」と言うので、「そうですか!」と嬉しくなって言ったら、続けて「最近は筆箱で、クラスメートを授業中たたいて泣かす事が極端に減りました。」先生の話によると、一人や二人を泣かすのでは無く、たたきながら教室中を回り、数人を同時に泣かしていたらしく、全く授業にならない事がかなりあったらしい。

娘は性格的に、いわゆる‘他人をいじめる’というタイプでは無い為、何人ものクラスメートが一斉に無くのが面白かったみたいである。「最近は、クラスメートを誘って、授業中外へ遊びに出て行こうとする事もなくなっていますよ。」ともう一人のゾンカの先生が横から言った。先生達も天海がクラスにいると大変だろうなぁ〜、とちょっと先生に同情した。「既に2回ほど、‘校長先生行き’になっておりますけど。」と先生はつけ加えた。

話は学業面に移り、現在PPではゾンカ(ブータンの公用語)、英語、算数、そしてEVS(環境学)の4科目とPE(体育)の授業があるらしく、ゾンカとEVSの授業は、ゾンカで行なわれ、英語と算数の授業が英語で行なわれている。予想はしていたが、私は習っている勉強量の多さに正直びっくりした。例えば、英語。アルファベットの大文字・小文字、そして色や天候、その上前置詞の使い方等。これだけの量をわずか数ヶ月でマスターしていくなんて。。。。。

「これが天海ちゃんのノートです。」と見せられたノートには、たくさんのチエックマークが書かれていた。「あのぅ、、、、、これはどういう事でしょうか?」と尋ねると、先生は、「先ずアルファベットを、点線に沿って何回も書いて練習するのですが、天海ちゃんは幾つかアルファベットを書いた後、私が他の子供に出来た印のチェックマークを書いているのを見て、自分のノートに全てチエックマークを書いて、私に見せにきたのです。」これには、私も閉口してしまった。

その後、毎月のテストファイルと各科目の評価一覧を先生は見せてくれた。10点満点中、1点か2点だったのが、最近は4点取れる様になっていた。「進歩してますよね〜。」と親馬鹿の私は先生に同意を求めると、「天海ちゃんの場合、テストの結果が良いとか悪いとかの問題では無く、先ずテストを受けておりません。」と、先生。「はっ???」と私。「私が側にいる間は、テストを受けているのですが、離れると直ぐに遊び始めております。私も他の生徒さんがいるので、天海ちゃんばかりに付いていられないのが、正直な所です。家で少しテストを受ける練習をされてみてはどうでしょうか?」

これにはちょっと私も困ってしまった。興味が無いものを無理やり押し付けても、絶対にやらないのは初めっから分かっている。しかし、この学校では50%に届かないと、留年となる。PPから留年というのも、、、、ちょっと困る。

さて、来週から口頭と筆記の中間テストが始まる。どうなるんだろうか。。。と、小心者の私は、今日も「窓ぎわのトットちゃん」を読み返している。

追記:しかしこの天海ちゃん、何故か校長先生(女性)のお気に入りらしく、先生のご主人に会う度に、「家内は天海ちゃんが可愛くて仕方無いみたいで、夕食の話題にいつも出てきますよ。」と言って下さる。有り難い事である。

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「卒業」 Jun.2nd, 2007

5月30日に私達第二期生の卒業式があった。以前にも書いたが、私達のプログラムはダニダ(デンマークの国際協力事業団)の援助を受けて成り立っていたので、式典にはダニダ関係者の方々も来た。先ず、師匠の長〜いプロジェクトに対するコメントから始まった。彼女は、私達二期生の良かった点やこれから努力するべき点を語り、デザイナーやテイラーとして仕事をしていく上での難しさ等を語った。20年のキャリアを持つ師匠の話は、やはり説得力があり、いろいろあったがプログラム終了までやって良かったな〜、と一人感慨にふけっていた。

 

ここには書かなかったが、実は約一ヶ月半前、私は師匠にこっぴどく叱られた。試験を一週間前に控え、指名で大きなオーダーが飛び込んできた。テスト終了日とそのオーダーの締め切りがほとんど同時期に重なり、気持ちはかなり焦っていた。

布を切る前に型紙(パターン)を先ず作るのだが、そのパターンを師匠に見せに家に行った時、「こんなものしか出来ないの。」と怒鳴り散らされた。二つのパターンの内一つは全く新しいものであった為、自分の知識が及ぶ限りでやり遂げたつもりだったのだが、やはり師匠の期待には全く沿うものではなかった様で、しばらく怒鳴られ続けた。

師匠からの一通りの説明が終わり、彼女の家を去る時、涙が止まらなくなっていた。師匠は泣かれるのが嫌いであるのを知っているので、車に飛び乗り、その時は一秒でも早くその場を去りたかった。車を運転しながら、子供の様に声をあげて、泣きじゃくった。私は師匠とは違う。才能があるわけでも無いし、仕上げのスピードも呑み込みも遅い。それでも、何かしらの成果が数年後には出るのではないかと思いながら、続けているのに。。。。。。その日からしばらく意欲が全く無くなり、クラスに行くのも億劫になった。私では手に負えないという事で、オーダーの方は師匠に引き継いでもらう事となった。師匠との関係もその日を境に何だかぎくしゃくし、プロジェクトに参加した事で、私達の友情も切れてしまった感じで、参加した事自体を後悔していた。

二つの試験があり、それからもいろいろあったが、こうして式典で師匠のスピーチを聞きながら、「あの時止めなくて良かったな。」と心底思った。

 

そして6月1日。一年間の総合成績と評価を、伝統工芸学校の校長先生から受け取った。総合評価・・・・「A」。涙が出そうになった。その上、これからマオンパをNGOとして運営していくという次のステップへと移行する為の四人のメンバーの一人に選ばれた。これから又新たな課題や挑戦が続きそうだが、それでも今私はそれ以上にワクワクしている。 という訳で、マオンパとブータンに関するブログはこれからもしばらく続きそうですが、今後ともどうぞ宜しくお願いします。

 追記:総合評価のコメント欄に、「こわがらずに質問しましょう」とあるのですが、質問すると怒鳴られるので、やはり私はこわいです。

 

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マオンパ最新カタログ

 

 

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「生き残れるか、マオンパ」 May, 2nd, 2007

すっかりご無沙汰してしまいました。私自身の生活が3月からかなり忙しくなり、デンマーク人のデザイナーさんが来てから、カリキュラムの方も内容が濃くなり、その上、ブータン唯一のインターネットのプロバイダーであるドルックネットへの接続が、難しくなっていた時期が重なり、しばらくブログの方から遠ざかっておりました。メールを下さっていた方々、お返事にもう少し時間がかかりますが、ブータンタイムでもうしばらくお待ち下さい。

4月の展示会も終わり、4日連続の大きなテストも終わり(これについては又書きたいと思います)、私達二期生の卒業まで約一ヶ月となった。以前にも書いたが、現在マオンパの活動は、デンマークの国際協力事業団のスポンサーを持ってなりたっている。しかしこの援助も、私達の卒業を持って打ち切りとなる為、はっきり言って今後の見通しは全く立っていない。3月末から第三期生がプログラムに参加しているが、彼ら・彼女らは伝統工芸学校の「デザイン・テイラーリング(縫製)コース」として正式に学校から認可されたプログラムの生徒となっている。しかしこの新しく設立されたコースの為に、学校がどのくらいの予算を確保してくれるのかは疑問であり、私を含め、二期生の何人かはまだ勉強を続けたいと思っているが、私達の立場も未だ定かではない。はっきり言って、船は漕ぎ出しているのだが、灯台の明かりが見えない状態なのである。

去年の6月から始まった二期生のプログラム。この間、殆どの生徒が様々な面において成長した様に思う。その一人がテンジン。以前は意志表示が全くと言ってよい程見られず、YESでもOK(ここブータンでのOKの解釈は微妙です)、NOでもOK。私も「どっちなん。」と突っ込みを入れたくなる事が度々あった。YES/NOがはっきりしている師匠のカンに触る事も多々あり、「テンジン」と怒鳴られる事もしばしばあった。

しかし、このテンジン。ファションショーのあたりから、少しずつ変わり始め、作品においても少しずつ責任を持って仕上げる様になり、最近ではその仕上げのスピードまで上がってきた。一ヶ月前の事。「マダム、あのプロジェクト終わりましたか?」と朝教室に入ると、ニコニコと笑いながらテンジンが尋ねてきた時、私は本当にびっくりした。と言うのも、これが初めて彼から私に話し掛けてきた言葉であり、それが何とクラスに関係したものだったからである。「まだ、やっている途中よ。」と答えると、「そうですか。」とまだニコニコ笑っている。どうしても彼のプロジェクトの進行具合を尋ねて欲しい様子。「テンジンは?」と尋ねると、「終わりましたよ。」と満面の笑みで答えてくれた。

最近のテンジンは明るい。表情がとても好い。無表情で、肩をすくめ、いつもペマの後について行っていた以前の彼とは全く違う。「マダム、終わりましたか?」とまだ仕上げをやっている私を見ながら、からかうまで自分に自信が持てるようになってきている。

一時は、彼のプロジェクトに対する姿勢に業を煮やした師匠が「警告」をだし、テイラーの仕事を営むお兄さん共々師匠に謝りに行き、マオンパのメンバーから外さない様に頼みに来た事もあった。マオンパでは月の終わりに、がんばった生徒に‘ボーナス’が支給されるのだが、先月(4月)、テンジンは初めてその‘ボーナス’を手にした。

卒業が近づいてきた。現時点ではマオンパがこれからどういう方向へと進んでいくのか分からないが、テンジンの様に意欲が出てきた生徒がもっと勉強を続けられる様に、どうにかしてその選択肢を見つけられる様にしたいと、私も願っている。

 

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「マオンパ再開」 March 17th, 2007

庭先の木々から新芽が出始め、ティンプーのあちらこちらで梅や桃の白やピンクの花が咲き始めると、「あぁ、やっとティンプーに春が来た」と思いそれだけで何だかワクワクする。こうした木々や花々は表面には見えなくても、春にきれいな花を咲かせる為に、寒い冬の間準備していたんだなぁ〜と改めて思う。そう言えば、中学校の時の国語の教科書に、ある桜の染色家の話が引用されていた。その方によると、桜は花だけではなく、木のどの部分を使っても桜色に染まるとの事。そして、私達人間はきれいな桜の花を愛で感動するが、桜の木は木全体であの花を咲かせる為に懸命に努力をしていると、、、、。

一ヶ月の冬休みを終え、3月1日からマオンパの活動が再開された。今月からデンマーク人のファションデザイナーが来て、私達のデザインと縫製の仕上げの技術を教えてくれる事となった。私達にとって、彼女が教えてくれるファションデザインの取り掛かり部分は全く新しい経験であり、私を含めたワクワク組みと、課題への取り組みへのプレッシャーからの頭痛組みとの二つに、マオンパメンバーは分かれた。この新しいプロジェクトと春の展示会へ向けての準備との少し慌ただしい日々の中、又もやマオンパに事件が起きた。

ペマ・・・優秀で、呑み込みも早く、いろんな意味において才能多き彼なのだが、未だに彼自身の行動に対する責任が取れないでいる。今までも、マオンパ内外で問題を起こしている彼なのだが、今回はちょっと問題が大きくなり過ぎ、退学処分になる可能性も出てきた。一日遅れで事の成り行きを聞いた私は、どうしても怒りを抑える事が出来なかった。“Why?(どうして?)”“Stupid!(馬鹿!)”という言葉が何度として口を吐いて出てきた。そしてある程度感情がコントロール出来る様になると、怒りは悲しみに変わった。どうして彼は自分と自分の人生を粗末にするのだろうか?彼はマオンパの活動を通して、技術以外に何を学んできたのだろうか?

「マオンパ」は技術を学ぶ場という事だけを活動の目標としてはいないし、ましてや営利を目的としているグループでもない。私が思うに、ここは「人間として成長していく一つの場」である。マオンパという活動を通して、様々な人々と交流し、自ら学び、自ら考え、そして成長してゆく。いつもいつもそこに答えが用意されているとは限らないし、そんなものは最初から無いかも知れない。それでもマオンパを通して、何か一つ大切なものを見つけられたら、その人にとって、それは技術を学ぶよりも人生に大きな意味をもたらすのではないだろうか。

様々な経験を積み、試行錯誤を繰り返しながら、10年後、桜のつぼみぐらいまで成長する事が出来たら、私は今まで以上の幸福な気持ちで日々を過ごしていることだろう。そんな日を夢見ながら、凡人の私は今日もマオンパの教室へと毎朝通う日々を過ごしている。

 

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(12/8):〜ブレークタイム〜  「地域との繋がりの重要性」

ブータンも日本も基本的には農耕民族であり、獲物を追って土地から土地へと移り住んでいく狩猟民族と違い、一つの場所に定住し、その土地の気候に合わせて、生きていく知恵が培われてきた。

村には‘長老’と呼ばれる人がいて、その村の人々の諍いの仲裁をしたり、縁談等の相談を受けたりする。現在の日本では、まるで「日本昔話」に出て来る様な話で、余りピンと来ない読者の方がいらっしゃるかも知れないが、こういった地域をベースとした人々の繋がりは、ここブータンでは色濃く現存する。それに加えて、‘家族’という単位が際限無く広い為、血縁関係がある無しに関わらず、そこら中に叔父さん、叔母さんと呼ばれる人達がいる。ここではそれが当たり前である為、こういった蜜な人間関係を特別なものと捉えていないが、実はこれが「地域ぐるみで子供を見守る社会」というものを形成している基盤であると私は思っている。

話は私の子供時代に移るが、当時私が育った地区にはとても多くの子供達がいて、地区対抗の野球やソフトボール、そして運動会等で、私達の地域はとても強かった。運動会では、その地区の大人も駆り出され、リレー等の競技もあり、私達子供は、地区内のどのお父さんやお母さんの運動神経が良いか等を良く知っていて、大会前になると、「あそこのお父さんが走るから、今回は絶対優勝出来る」とか、子供達なりに熱い議論を交わしていた。そして、そう言った大人達が自分と同じ地区にいる事が、私達子供にとっては誇りだった。

今考えて見ると、そこのお父さんがどういった職業に就いているとか、どれだけの年収があるかなんて、全く取るに足らない問題であり、その地域にどれだけ貢献してくれているかの方が、子供達にとっては大きな話題だった。私の子供の頃、地域には「子供が尊敬したり、信頼を置ける大人」がたくさんいた。

今、安倍首相は「日本人として誇りが持てる、美しい国づくり」の必要性を訴えているが、具体的にはどうしたいのだろうか?私は一つの案として、「大人が地域に貢献出来る様な社会環境作り」をもっと積極的に進めたらどうだろうかと思う。

狩猟民族的な「弱肉強食」の社会価値も国として生き残っていく為に必要だと思うが、「世界一自殺者の多い国日本」という現状を考えると、どう考えても日本人の価値観に合っていない様に思う。それよりも、地域との繋がりをもっと重要視し、世代を超えた人々との交流をもっと頻繁にする事が、長い目で見て、社会に良い影響をもたらす様に思う。

ブータンにおいて、100%に近いブータン人が、ブータン人である事に誇りを持っている。そしてその多くの人達が「美しい国」だからと理由付けする。地域・家族を基盤としたブータンの密接な人間関係と母国への誇り、私は何かしらの関係がここにある様に思う。

「美しい国」を作るヒントを得る為、安倍首相、一度ブータンへお越しになってみませんか?

 

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〜ブレークタイム〜 「ブータンの言語教育について」 Nov. 26th, 2006

娘は3ヶ国語を話す。ゾンカ(ブータンの公用語)、英語、そして日本語。彼女の頭の中ではこれらの言語が今ごちゃごちゃの状態で、まだきちんと整理されていないし、同じ物の名称を3ヶ国語で知っている訳では無いので、一つの文の中に、この三つの言語がごちゃごちゃになって出てくる時が多々ある。今4歳になる彼女は、絵本を見ながら自分なりの話を作る事に熱中しているのだが、その時に出る言語は、英語か日本語である。どうしてゾンカが出てこないのだろうか?(ちなみに、主人と主人の家族はゾンカだけで、娘に話す様にしている。)

基本的にブータンの教育言語は、英語である。学校の授業科目の一つとして、ゾンカという国語の授業があり、最近では歴史の授業もゾンカで行う方針が教育省でうち出され、教科書も一新された。しかし、テレビ・インターネットが普及し始めた現在のブータンにおいて、若者達のゾンカ離れが加速し始めており、政府はゾンカの普及に力を入れ、「政府関係の文書は全てゾンカによるものにする」とか、中学、高校、そして専門学校や国内唯一の大学への合格基準において、ゾンカへの点数配分を多くする等、いろいろやっているのだが、はっきり言って全く機能していない。と言って、逆に英語の質はどうか、と言うとこれもレベルが年々落ちて来ているという事で、教育省は頭を抱える事態に行き詰っているのが現状である。

私は言語学というのが苦手で、言語自体を勉強するのはとても苦痛で(だから私の英語が全く向上しないのだろうか。。。。。つぶやき)、いくら勉強しても全く頭に入らないのだが、言語教育にはとても興味がある。今は伝統工芸学校でミシンを踏んでいる私なのだが、実はハワイ大で日本語教育の修士を取った。(補足:ここで、私の文章の下手さに突っ込みを入れる読者の方がいると思いますが、どう言語を教えていくかという事は、その言語が堪能であるという事と少し違うのです。)ブータンに来て、こちらのJICA(日本国際協力事業団)に、「日本人に分かりやすく学べるゾンカのテキストを作って欲しい」という依頼を受け、当時現存した全てのゾンカテキスト、並びにゾンカの言語概論(英語か日本語で書かれているもの)を読みあさり、主人と二人で作ったのだが、その時「この国では、言語学と言語教育は違うという事が理解されていないのではないか?」という疑問を持った。

日本の場合、日本語が第一言語で、英語等の言語は第二言語として、教えられている。ブータンの場合、理論的にはゾンカが第一言語で、英語が第二言語なのだが、学校教育は英語で教えられている為、どちらの言語でも文法をならっていない。基本的に、教科書と先生の言った事を丸暗記するのが、授業なのである。従って、先生の英語が間違っていれば、必然とその生徒達の英語も間違っていて、それが自然に質の低下へと繋がっている。ゾンカの授業の場合、多くの生徒達(私の知る限り小学校)は「クラスがつまらない」という。先生が言った事を復唱し、暗誦し、テストをする。それが授業だと思っている先生達がたくさんいる(補足:しかし、その先生達も同じ様に教えられてきた結果なので、その先生達だけの責任ではない。)。子供が興味を持つ様な取り組みや創造性を伸ばす様なイベントが、ゾンカの授業では殆ど見られないらしい。アルファベットや単語を英語やゾンカで如何に生徒達が知っているかだけで、先生も親も満足しているらしい。

そこで私の好奇心がムクムクと湧いてきた。「じゃ、実際に私も体験してみよう!」来年から娘が「プレ・プライマリー」という小学校前の準備学年に入学するので、私も行って見る事にした。そこで、実際に何が起こっているのか「ケース・スタディー」をしてみるのも面白いと思っている。楽しみだな〜!

 

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「チームワークの必要性」  Nov.11th, 2006

主人に作ってもらったこたつに入り(ヒーター部分は日本から輸入)、お隣の日本人のご夫婦に頂いた自家製干し柿にパクつき、母に送ってもらった煎茶をすする。ブータンで幸福を感じる一時。 「あ〜、やはり私は日本人。」

先日ある人が日本の戦後の経済発展の成功についての自論を語っていた。そこにはチームワークがあったからだ、とそのブータン人の彼は熱く語り、今回のマオンパの受賞も同じくチームワークが良かったからだ、と結論付けていたのだが、私は心の中で、「そうですか?こんなもので良いんですか?」と正直思っていた。というものも展示会・ファションショーと今回ブータンで初めてグループでの創作活動に参加して、つくづく「チームワークの必要性」を今後の課題に感じた。

個人的に芸術の分野においても、私はチームワークというものはとても大切ではないかと思っている。モーツアルトの様に人並外れた才能に恵まれている人なら話は違うかも知れないが、大方の(もちろん私を含む)凡人の場合、チームワークを発揮する事で、何か大きなものを生み出せる様に思う。皆が皆同じ才能があるわけではないし、それぞれ皆違った良さを持っている。「適材適所」という表現があるが、正に自分の得意分野において人はそれぞれの持ち味を発揮出来る様に思う。しかしながら、ブータンの場合、学校教育の場において、日本と比較すると、グループでの創作活動の場が極端に少ない。基本的に、先生が絶対的な権限を持っていて、生徒達はその枠組みから外れない様にする事にすっかり慣れきってしまっている様に思う。

この傾向は社会に出てからも変わらず、自分の畑を耕していさえすれば良かった昔と違い、トップダウンの傾向が強い首都ティンプーでは、絶対的権限を持つ上司やボスの機嫌を伺う事の方が、自分の仕事よりも重要になってきている。大人達をよく観察している若者達は、昔よりもここの所を表面的に体得していて、必然と自分が評価される対象にだけ一生懸命で、他の部分は全く興味を示さない傾向が見られる。チームワークが必要な時に、お互いが背を向けている状態では前に進めるものも進めなくなる。

ブータンにきてもうすぐ6年になるが、この間様々なプロジェクトが外国人の指導の下立ち上がり、その指導者がブータンを去ると共に消えていった。先日労働省のある人が、「そろそろ次のマオンパのスクールキャプテン(リーダー)を探さないと、、、。」と私の横でポツリと言った。旗振りがいれば何とかなる、というこの考え方こそ、そろそろ脱却する必要があるのではないか、と私はその人の顔をマジマジと眺めていた。

 

 

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10月24日、25日、ティンプーで行われたファッションショー

 

ブータン初のデザイン・縫製コースのグループ「マオンパ」が、2006年度のファションショー創作部門において、第一位を受賞致しました。

現在このグループは、伝統工芸学校の一角でプロジェクトを進め、ダニダ(デンマークの国際協力事業団)のスポンサーを受けて、活動しております。「マオンパ」とは、ゾンカで「将来」という意味で、ブータンにおいて、新しいファションを推進すべく、名付けられました。活動内容としましては、ブータンの伝統織物を使って、モダンデザインの服を作り、ブータンの素晴らしい伝統技術を、私達なりのやり方で、多くの人に知ってもらえる様に努めております。

ゆっくりですが、これからも精進して参りますので、これからも宜しくお願い致します。 

Tashi Delek!  

片山理絵(ちなみに私も生徒の一人です。)

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「ファションショー 参加決定!」 Oct.12th, 2006

今年のファションショーに、我がマオンパのエントリーが決定致しました。創作部門のコンペにも初挑戦します!その頃ブータンにいらっしゃる方は、お誘い合わせの上、是非是非会場にいらして下さい。

〜ブータン ファションウィーク情報〜 21日から27日まで、展示部門がクロックタワーで開かれます。ブータンの織物だけではなく、地方からの民芸品等も展示・販売される予定です。 

ちなみにマオンパも出展しま〜す! ファションショーは、24・25日に、RAPAホールで開かれます。

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「村からの訪問者」 Oct.4th, 2006

その日、ドルジがいかにも村から今出てきましたという容姿をした、二人の男と一緒に教室に入って来た。「師匠、彼らが持って来た織物を一度見てあげて下さい。」と、ドルジ。よく見ると、二人共これでもかというぐらい大きな風呂敷包みを背中に抱え、その重みで真っ直ぐに歩けない程である。教室内にある裁断用の一番大きな机の上にドサッと置いたその風呂敷包みを解くと、中から色とりどりの織物が出てきた。男性用の民族衣装のゴ、女性用のキラを始め、カムニ、ラチュ、ケラ等など。しかし、残念な事にどのデザインもパッとしたものが無い。色の組合わせからデザインから、はっきり言ってちょっと古臭い。師匠も「村のデザインね。」と言い放った。もうすぐ展示会なので、私達マオンパも多くの手織物が必要なのだが、どれもちょっと使えそうにないデザインなのである。

二人は首都ティンプーのツェチュ(10月2日〜4日)に合わせて、サムドゥップ・ジョンカル県のある村から出てきた。村で織物を売る場合、多くの仲介業者が売値をたたくので、織手の手元にはなかなか満足な額の現金収入が入らないのが現実である。と同時に、ブータンの東の方では、各家庭で皆それぞれ民族衣装を織るので、他人が織った織物を高値で買い取る需要も無い。ティンプーにさえ来れば、誰かが高値で買ってくれるのではないか、という思いから彼らの様に村を代表して売りに来るケースが数多くある。

しかし、現実は厳しい。安いインドからの機械織りの布地が溢れている昨今のティンプーでは、ブータン人もデザインがある程度のものでないと、高いお金を出してまで手織物を買わない。従って彼らの場合、今だ一反の布も売れていなく、村に帰る為のバス賃も無いので帰るに帰れなく、ここ伝統工芸学校に来たとの事。しかし、ここでも織物を教えているクラスはあるが、他人が織ったものを学校は購入しないので、途方にくれている時にドルジに会った。

うちの師匠の決断は早い。「じゃ、これとこれとこれ。」という風に何点かをプロジェクトで購入する事にした。布を持って来た二人もちょっとホッとした様な表情を浮かべている。これで明日村に帰れるわけである。

展示会に向けて、私とアム・チュッキーが生徒のデザインを手伝う様になったのだが、さてこの布、、、、どうしよう。。。展示会でお客様が購入したくなる様な作品に仕上げなければならない。。。。はっきり言ってチャレンジである。

ツェチュが終われば、本格的に展示会の準備が始まる。さぁ〜、がんばるぞ!

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「人としての意味」 Oct.1st, 2006

前回のブログにも書いた様に、マオンパのプロジェクトに参加を希望する生徒は、選考面接を受けなくてはならない。予算とクラスの運営上の都合、今年は12名の生徒達が選ばれたわけだが、3人が最初の5日で姿を消した。繰り上がりでプログラムに参加する事が出来たラッキー(?)さんが、シーラである。

シーラは小柄で、とても可愛らしい顔をしていて、お人形さんみたいな子、というのが私の第一印象だった。彼女は教室内で殆ど話さないので、どういった性格か、と尋ねられてもあんまり私もよく分からない。しかし、彼女も前回書いたウゲンと同様、少しずつこのプログラム自体に興味を持ち始めているのに気づいた出来事が先日あった。

その日、私が学校に着いた時、ゴミの収集に来る車をニーが外で待っていた。「ん〜、今日はニーの当番の日だったっけ?」と思いながら、「おはよ〜」と声を掛け、私は教室に向かった。教室に着くと、何だか空気が思わしくない。「どうしたの?」とドルジに尋ねてみた所、ゴミ出しの当番を廻ってドルジがツェテムに手を焼いていた。今日の教室掃除の当番は、サンゲーとツェテムなのだが、サンゲーが来ていない為、ツェテムが教室を一人で掃除しなければならなかった事が彼は不服らしい。教室内の掃除は当番制なのだが、ゴミ出しの当番までは決めていなかった。「先週は誰がしたの?」と私。「ニー」とドルジ。「先々週は?」「ニー」ん〜、ニーの人の好さが利用されている気が、、、と思い、「ゴミ出しの当番もきちんと決めようよ。ニーばかりがしなくて良いように。」という事で、取り敢えず今日の掃除当番がツェテムなので、ツェテムから、とドルジが言っても、返事はすれども全く腰が上がらない。「ツェテム。」と私が言っても、全く同じ。私もだんだん腹が立ってきて、「ツェテム、友達を助ける事の方が今やっている事よりも、数段大切でしょ!」と大人気なく、思わず大声で叫んでしまった。そこでようやく教室を出て行き始めた時に、シーラがゴミ箱を抱えて、ニーと一緒に入ってきた。一同、沈黙でシーラを見つめていたのだが、シーラは何事も無かった様に、私に微笑んでゴミ箱を床に置いた。

正直言って、今までシーラが誰かの手助けをするのを教室内で見た事がなかった。作業もいつも遅れがちな彼女なので、自分の事だけで一杯一杯なのかも知れないが、前回ウゲンのブログで書いた時の、全く手伝わなかった生徒の一人が実は彼女だった。

今回誰も何も言わないのに、シーラが率先してニーを手伝いに外に行った事を、私はとても嬉しく、感動さえ覚えた。

人は他人がいて初めて人として生きている意味を見出せるのだから、他人を助けるという事は、何か特別な事ではなく、人として当たり前の事だと私は思う。

作業の方は相変わらずマイペースのシーラだが、彼女の中で少しずつ何かが変わりつつある様に私は感じている。このプログラムが終了する時のシーラの成長が今から楽しみな私である。

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「第一印象が全てでは無い 〜ウゲンの場合〜」 Sep.30th, 2006

以前にも書いた様にマオンパは、デンマークの国際協力事業団が去年に引き続き資金の提供を申し出てくれたので、プログラムが成り立っている。このプログラムへの参加を希望する生徒達の選考の過程に、面接があるのだが、結局はこれがもっとも重要な関門となる。世の中には自分をアピールするのが上手な人と下手な人がどこの国にもいて、選考面接においては、当然前者の人間が得をする理由だが、その後その人がどういう風に成長していくか、というのはなかなかその第一印象だけでは判断しにくいものである、とウゲンを見ていて改めて思った。

ウゲン、彼女はとにかくよく喋り、よく笑う。黙って黙々と仕事をする所謂職人気質とは程遠い。最初の一ヶ月、私の中でウゲンの印象は余り良く無かった。所謂おしゃべりに興じて、仕事が出来ないタイプというのが私の中での彼女のイメージだった。師匠も「ウゲン!」と怒鳴らざるを得ない状況が度々あった。しかし、プロジェクトに対するウゲンの態度が変わり始めたと私が気づいたのは、師匠が休暇でヨーロッパに行っている時だった。最初は縫い目がまっすぐだろうが、曲がっていようがそれを解いてやり直すという努力は全く無かった彼女だが、彼女の仕上げたスカートがとても良く出来ていたので、それをコメントした所、「マダム、私はこれを4回も解いてやり直したんですよ。」と鼻息荒く、でも私が気づいた事に嬉しそうに、その作業過程を長〜く話してくれた。

ウゲンの場合、3ヶ月前の彼女と今の彼女では明らかにプロジェクトに対する興味が違って来ているのが見て取れる。師匠がまだ休暇でいない時、教室をもっと見栄え良くしようと、整理棚やミシンの位置を動かしたり、教室の掃除をした時があった。その時、ウゲンがリーダーシップを発揮し、次々と人に仕事を与えながら、自分も重い棚をドルジ達と担いで、一生懸命働いていた。私は「ウゲン、本当に成長したな〜。」と嬉しく彼女を見ていた。そんなに大きくも無い教室で、こうやって動いている生徒達がいても、全く動こうとしない生徒達もいて、それが私にはとても不思議だった。

同じ気持ちをウゲンも持ったらしく、「マダム、ここは私達の教室なんだから、皆で動くのが当たり前ですよね。」と私に同意を求めてきた。「そうだよね。でもこれは強制ではないから、そういう意志がある人たちだけで、今回はやろうよ。」と彼女を宥めた。この発言でも、彼女が少しずつプロジェクト自体に対して、愛着を感じ始めているのが受け取れて、嬉しくなった。

もし面接の場で私がいたら、恐らく私はウゲンを落としていたと思う。彼女を見ていて、「第一印象が全てでは無い」という事を改めて教えられた。

「私達の教室」「私達のプロジェクト」マオンパは確かに技術を学ぶ場なのだが、それ以上のものが学べる場でもあるという事を思う今日この頃である。

 

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「師匠が帰って来た!」 Sep. 20th, 2006

月曜日、教室に行くと、教室がとても整然としていて、いつも汚い床がとても綺麗!「ちょっと、この床どうしたのよ。」とドルジに尋ねると、土曜日に皆総出で掃除をしに来たとの事。「ふぅ〜ん、やれば出来るんじゃん。」毎日このくらい床を掃除出来ると良いんだけどね〜、と日本人の私は思ってしまった。その日、どことなく教室に緊張感が漂っていて、いつもクラスに遅れてくるドロシーもその日は私がクラスに来る前に教室に来ていて、いろいろと生徒達に指示を出していた。しかし、お昼が近くなっても師匠は現れず、緊張感も長続きはしないので、皆少しずつリラックスし始めた。師匠が時差ぼけに極端に弱いのを知っている私は、今日は恐らく来ないだろうとふんでいたので、「ん〜、やっぱり。」と思っていたのだが、私が帰るお昼近くになっても結局彼女は来なかった。

そして火曜日。昨日と比べるとかなりリラックスした雰囲気のクラスに、突然師匠が「おはよう、皆さん。変わりなくやっていますか?」と笑顔で、ヤタのジャケットにマフラー、サングラスといった銀行強盗っぽい出で立ちで現れた。ざざっ〜、と一斉に皆総立ちとなり、一瞬にして教室内に緊張感が漂った。

私たち「マオンパ」の発起人であり、グループの師匠でもあるフォン。彼女はベトナム人で、デザイナー兼テーラーとして、もう20年のキャリアがある。彼女は私の親友だが、一歩教室に入ると師匠なので、教室内で彼女と話をする時は私も緊張し、英語も何故かたどたどしくなる。ストレスを感じやすい性質の私にとって、いつも自信に溢れている彼女は、裁縫以上の人生の師匠である。「必要以上に自信があるのも、余り良く無いと思うよ。」と、昨年プロジェクトがある壁にぶつかり、ある人達と言い争いをした時、私にそう言って笑った。確かに、彼女は自分が正しいと思う事は絶対に譲らない。日本人独特の場の雰囲気を考えてとか、上司にはたてつかない様になんて事は、全く関係無い。自分が正しいと思う事を自分が正しいと思うやり方で遣り抜くのが彼女である。

今やデンマーク人の旦那様と、ファショナブルな服に身を纏い、イタリア、フランス、スイス等ヨーロッパの国々の街を颯爽と闊歩する彼女だが、ベトナム戦争後の何も無かった生活が自分の原点である事をよく知っている。「ホッパー、お腹が空いて空いて仕方無い生活をした事無いでしょう。」と昔の話をたまにしてくれるのだが、それは今の彼女からは全く想像がつかない話ばかりである。彼女の父親は南政府の役人であった為、敗北後家族の状況は一変し、彼女は自分の腕一つで家族を養い、自分の店を立ち上げるまでになった。彼女の自信はそういった自分の生き方に裏打ちされたものなのだろう、と私は思う。

大きな車でドライバーさんに送ってもらえる生活が出来るにも関わらず、彼女は学校に原付で来る。「他人に頼らないと動けないなんて、面倒じゃない。」という一言に、彼女の生き様を思う。

やはり、彼女は私の人生の師匠でもある。

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「トウモロコシと唐辛子」 Sep.7th, 2006

ブータンの人達にとって、唐辛子は無くてはならないものであり、唐辛子抜きの料理はブータン料理とは呼びません。辛いものが全く駄目な私にとって、これは本当に試練でした。最初は唐辛子が一本でも料理の中に入っているだけで、辛くて辛くて食べられなく、義母が私用に料理を別に用意してくれたりもしていました。しかし、ブータンにお嫁に来て、ブータン料理が食べられないというのは恥ずかしい事ですので、いろいろと努力の末、今ではある程度の辛さのブータン料理なら食べられる様になりました。なかなか辛さに慣れず、焦りを感じていた時期もありましたが、時間をかければ、何事もある程度出来る様になるものだと、ちょっと自信がつきました。

今日は、私の織りの方を担当してくれている、ディチエンさんのエピソードを紹介したいと思います。

ディチエンさんは中央ブータンのルンツィ県にあるクルテ地方の出身で、彼女もブータンの他の織手さんと同じ様に、小さい頃から母親に習って織りを覚えたそうです。(補足:クルテ地方は、織物の盛んな村で、ここの「キシュ」という複雑な幾何学模様の織りは、ブータンが世界に誇れる伝統文化の一つだと私は強く思っています。)ディチエンさんは、現在私がデザインする布地の織りを全て引き受けてくれていて、彼女無くして、新しい布地のデザインの制作は全く考えられません。その日も頼んでいた織物が仕上がったという事で、ディチエンさんが朝早く家に届けてくれました。いつもの様に出来上がった織物のチエックをし、そして新しいデザインの糸と色の説明をし終わり、ディチエンさんの子供の話等の雑談をしていると、「マダム」と言いながら、ディチエンさんが、下げていた大きな袋の中から、「私の庭で作ったものです。良く出来たので、マダムにも食べて頂きたい。」とトウモロコシと唐辛子を取り出し、私に手渡してくれました。思いがけない出来事に、目頭が熱くなり、胸が締め付けられました。というのも、私は彼女の畑がどれだけの広さを持っているか知っていますし、彼女には8人の子供がいるのです。

ここブータンでは、援助出来る人達が他の親戚の面倒を見るというのが当たり前の社会ですが、私の義父や義母の様に、学業や修行を続ける為のお坊様達のパトロンになったりもします。以前から主人と話し合っていたのですが、主人と私は、ディチエンさんの子供達の何人かの学業面でのパトロンとなろうと思っています。これから何かしらディチエンさんの力になれれば、私たちも嬉しいものです。

さて、あの唐辛子、どうやって食べよう。

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〜ブレークタイム〜 前世の夫に巡り合う幸せ

皆さんは輪廻を信じますか?ここブータンでは、多くの人が輪廻を信じ、徳を積んだ高僧の生まれ変わりは、ティクーと呼ばれ、小さい頃から高僧になる為の特別な修行に出されます。最近私達の友達の息子さんは、彼の御祖父さんであり、立派なお坊様でもあったロンデル氏の生まれ変わりと正式に承認され、本人の希望により、御祖父さんが修行を積んだインドへと発ちました。(ちなみに、彼はまだ5歳です。)

今回は、最近私が見つけた輪廻に纏わる興味深い記事を紹介したいと思います。

タシガン県に住むノルブおばあちゃんには、ティンレーさんとコトゥさんの二人の旦那さんがいました。(補足:ブータンでは重婚が認められており、妻が複数の夫を持つ事も可能です。)ティンレーさんとコトゥさんは兄弟で、コトゥさんの奥さんが早くに亡くなった為、可哀相に思ったティンレーさんがノルブおばあちゃんにコトゥさんを第二の夫として迎える様に勧めました。ノルブおばあちゃんは、あまり乗る気ではありませんでしたが、コトゥさんを第二の夫とし、彼の二人の娘も引き取る事としました。

コトゥさんの本業は牛飼いでしたが、彼は職人としてもかなりの腕を持ち、自分の持ち物を縫ったり、銀細工等を手がけたりもしておりました。人の好いコトゥさんでしたが、残念ながら若くして亡くなり、その数年後ティンレーさんも亡くなりました。

時は流れ、ノルブおばあちゃんの元に、他県にコトゥさんの生まれ変わりの子がいるというニュースが届きました。その子は、小さい時から自分の前世の話をし、それがコトゥさんの生涯と見事に一致するというのです。コトゥさんの生まれ変わりと言われている子は、15歳になった時、ノルブおばあちゃんの元に会いに来ました。シャロブという名のその子は、自分の前世の二人の娘の名や亡くなった妻の名、そして自分の前世の身の回り品や飼っていた家畜等について話し、コトゥさんがよく歩いていた村の小道等も識別しました。

現在83歳のノルブおばあちゃんは、コトゥさんの生まれ変わりである29歳のシャロブさんと親戚付き合いをしており、年老いたコトゥさんの二人の娘さん達は、お父さんに会うのが嬉しくて、足繁くシャロブさんの元に通い、それをシャロブさんとその妻のケキさんも温かく受け入れているという事です。

どうですか?とてもブータンらしいエピソードだと私は思うのですが。現在ノルブおばあちゃんには、14人の孫、24人の曾孫、そして1人の玄孫がいるそうです。

ちなみに数年前の話ですが、隣の家の家畜小屋ばかりに行く男の子がおり、両親はそれをとても不思議に思っていた所、彼の前世が隣の雄牛だという事が分かったそうです。

私の前世は、何だったんだろうか?とちょっと考えてしまいました。

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「15ニュルタムの重み」 Aug.21st, 2006

先日うちの親戚の一人が、「ホッパーの義父の家に、初めて父親に連れられて訪問した時、ホッパーの義父が5ニュルタム(約13円)紙幣を私にくれたの。その当時の5ニュルタムというのはとても貴重なもので、その紙幣が私の目には輝いていたのを今でも覚えている。」とにこやかに話してくれた。5ニュルタム−現在では、首都ティンプーで30分までの駐車料金に相当し、コリアンダーが一把市場で買えるが、このエピソードを話してくれた彼女の子供達に、今5ニュルタムをあげても、けちなオバさんと思われるのが関の山である。しかし、首都ティンプーと地方の貨幣価値というものはかなり違い、今でも地方に行くと5ニュルタムというのはとても貴重な額なのである。

「マダム、僕の父親はモンガルで仕立ての仕事をしているんです。」と先日ニーが話してくれた。彼は父親に習って小さい頃からミシンを踏んでおり、マオンパのメンバーになる前から民族衣装や簡単な洋服の仕立業というものがどういうものか知っていた。父親の教えだと思うが、二ーは二期生の中で一番ミシンを丁寧に扱い、毎日ミシンの手入れをしている事を私はプログラムが始まった当初から気付いていたが、彼が昼食を取っていない事に気付いたのは、プログラムが始まって一ヶ月ぐらいしてからだった。

ティンプーでの学生やオフィスに勤めている人たちは、15ニュルタム(約40円)から25ニュルタム(約65円)ぐらいで大体昼食を済ませている。一回の昼食だけを考えればそれ程の料金ではないが、それが毎日となれば自然と昼食代は加算でくる。彼の様に実家が地方にあり、親戚の家に身を寄せている人は、自分の自由になるお金がそれ程あるわけでは無く、地方から両親がお金を送ったり、兄弟達が支援をしている場合が多い。従ってニーの場合、彼の昼食代を稼ぐ為に、父親がどれだけミシンに向かっているか彼自身よく分かっているのである。

「最近は仕立の仕事に就く人が増えて、仕立賃を下げなければならないんです。」とニーは父親の話をし始めた。「だから、これからは人と違った事をしないと、ビジネスとしては難しいんです。」そしてマオンパのメンバーになり、新たな分野での仕立ての仕事をする為に、地方から出てきたと続けた。彼はとても素直で誠実な青年であり、人を騙してお金を儲けようとか、物を盗もうとかという事が出来ないタイプである。マオンパのメンバーも彼の性格が分かっており、メンバーの推薦により彼はこのプログラムの会計係と備品係を担当している。

お世辞にも決して要領が良い彼では無いが、ありのままで、人から信頼を得る事が出来るという事は貴重であると思う。これからも変わらぬ彼でいて欲しい、と私は密かに願っている。

最後に私の小さな疑問なのだが、ニーが小指の爪を長く伸ばしているのには、何か意味があるのだろうか??いつか尋ねてみようと思っているのだが、未だそのタイミングを見出せないでいる私である。

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「マオンパって織物博物館のプロジェクトではないの?」 Aug.17th, 2006

第二期生のプロジェクトが始まってから2ヶ月半が過ぎた。客観的にクラスを見ていて、それぞれの生徒の個性というものが、様々な面に現れていて、(失礼な話であるが)楽しく観察させてもらっている。皆それぞれに良さというものを持っていて、何だかんだあるけれど、やはり私は人と付き合っていくのが好きな部類の人間だと改めて思う。

「そろそろマオンパのロゴを考えようよ。」と、もう一人のプログラム終了生兼指南役のドロシーに提案してみた。最近強く思うのだが、このマオンパ、私が思っていた以上にブータン国内においても知名度が低い。私達の作業場は、伝統工芸学校の一室にあるのだが、学校のプログラムの一部では無く、カリキュラムもスポンサーも全く独立したものとなっている。今年のプログラムは、ダニダ(デンマークの国際協力事業団)がスポンサーとなってくれていて、予算はある程度ついているのだが、来年からの予算は全く未定である。何れにせよ、マオンパの活動と作品について、もっと多くの人たちに知ってもらう必要がある事は、明らかである。

ロゴをどういう風に作っていくか、それをどういう風に私達の作品と結びつく様に宣伝していくか、ドロシーと話していたら、それを横で聞いていたタシが、「マオンパって、織物博物館のプロジェクトではないの?」と真顔で私に尋ねた。私は呆気に取られて反射的にドロシーの顔を見た。「NO!」とドロシーは、金切り声を上げ、「あなたはマオンパのメンバーでありながら、未だ分かっていないの?」と続けた。

この事があってから、現在の二期生の中で、実際の所何人の生徒が「マオンパとは何か」という事を理解をしているのか、疑問を持ち始めた。タシの様に、プログラムが終了すれば、自動的に織物博物館に就職出来る、と安易な考えを持っている生徒が他にいないとは言えない様に思う。

ブータンでは、多くの若者達が政府関係の職に就きたがる。「職が安定している」という事がその大きな理由なのだが、多くの場合それが自分の興味のある職種であるという事ではない。うちの師匠は、「自立心を持つ事」が如何に大切かという事をよく口にし、マオンパでの活動を通して、その糸口を見てけて欲しいと願っている。しかし、「相互扶養」が当たり前のこのブータン社会の中で、「自立心」「独立心」といった事にどれだけ人々が価値を置いているか、私はここに大きなギャップがある様に思われる。

師匠が夏休暇から帰って来たら、恐らく一度それについて話し合う必要がある様に思う今日この頃である。

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「私がマオンパのメンバーになった理由」 Aug.13th, 2006

「最近、何してるのよ?」と尋ねられ、「毎朝、伝統工芸学校に通っている。」と私が答えると、ブータン人の反応は様々だ。「時間を潰すには良いことよね。」と言う人。「何でそんな所に行ってるの?」と驚く人。挙句の果てには「ギャンブルしてるよりは良いわよね。」とまで言われる。(補足:最近ティンプーでは、主婦がギャンブル漬けになる問題が起こっている。ちなみに私はギャンブルに興味がありません。)別に悪気があって言っているのではなくて、どうして私が毎日学校に通っているのか、その理由が分からないらしい。と言う訳で、今回は「私がマオンパのメンバーになった理由」について少し触れてみたい。

「何かしら自分の興味が持て、そしてブータンという国に貢献できる事」を、この国にお嫁に来てからいつも探していた。義母が素晴らしい織物のデザイナーで、よく織物について教えてくれるので、自然と織物に興味が持てる環境にあったと言う事は、今考えると有り難い事だった。色の組合わせやデザイン等、恐らく一生かかる私の課題になるだろう。

織物のデザインを少しずつ始め、腕のかなり良い織子さんとも巡り合う事が出来、それはそれで趣味レベルで一生続ける事が出来そうなのだが、どうしてもそれだけでは自分なりに納得がいかない。そんな時に、親友であり現在師匠である、フォンに出会った。彼女と仲良くなり、私が「ブータンの織物を使って、日常に着られる服を作りたい。」という話をした所、個人的に裁縫を教えてくれる事となった。彼女も彼女なりにブータンの国に貢献したいという思いから、今のマオンパのスタートとなるプログラムを立ち上げた。このプログラムが始まる当初から彼女は、私にプログラムに参加する事を勧めてくれていたのだが、娘が小さい事もあり、自分の自由になる時間がかなり限られていた為、後方支援という形で、彼女の相談に乗ったりしながら、時間が許す限り裁縫は続けていた。

そして今年、「私がこの国にいられる時間は限られてるの。このチャンスを逃したら、もう私があなたに教えてあげるチャンスは無いかも知れない。」とフォンがある日、ちょっと冗談っぽく、脅し半分で私に言った。教室に一歩足を踏み入れると師匠なので、物凄く厳しい彼女なのだが、親友としての彼女の思いやりというものを私は知っているので、いろいろあった挙句、私もマオンパのメンバーに入る事となった。

そしてメンバーになった今、技術を習う以上にこのメンバーになって良かったと思う事は、ブータンという国を違った角度から見るチャンスを得る事が出来、出逢いの場が広がったという事である。これについては又違う機会に書いてみようと思うが、これは私にとって大きな収穫であり、自分がどういった形でこの国に貢献出来るかという事の糸口を恐らくやっと見つけた。

神様は必要な時に、必要な出逢いを用意してくれていると感謝する今日この頃である。

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「俺の血をやるよ」 Aug, 5th, 2006

先日、「マオンパ」の面目に関わる事があり、朝からドルジはかなり機嫌が悪かった。その機嫌が悪い時に、サンゲが「病院に行きたいんだけど。」と許可を求めるものだから、「何でだよ。」とちょっと怒った様な調子でツッケンドンに聞き返した。「輸血をしなければならないの。」彼女によると、ある数値が基準値に比べてかなり低いらしく、定期的に輸血が必要らしい。しかし、直ぐに輸血用の血液が病院に十分確保出来ていれば良いのだが、他にも同じ様な方がいるので、順番を待たなければならないらしい。という事で、彼女のお姉さんが順番待ちの為、今病院にいるとの事。(ブータンでの医療サービスは、基本的に無料なのだが、設備が十分整っているとは言えないのが実情であり、患者数が多い為、順番待ちは、数時間から半日に及ぶ。)

「サンゲ、お前の血液型は何だよ。」と、この会話を聞いていたぺマが突然尋ねた。「A」「俺の血をやるよ。」と席を立ち、「お前が血を食べるなんて知らなかったよ。俺の血が入れば、お前も強くなるぞ。」と言いながら、もう既に準備体操を始めている。彼のこの一言に救われた様に、教室の雰囲気ががらっと和むのを私は感じた。「サンゲ、どのくらいの輸血が必要なんだよ。」「3リットル。」「俺もAだから、一緒に行ってやるよ。」とドルジも席を立ち出した。「私もAだから、行く。」とタシ。「私も。」とウゲン。「じゃ、私も。」とイシエ。そこで皆は、「イシエは止めた方が良い。」と華奢なイシエを止め、ドヤドヤと教室を出て行った。

何でもそうだけれど、最初に手を上げ、人を動かす力を持っている人って凄いと私は思う。

ぺマ、実は彼は今家族の問題を抱え、プログラムを続けられるかどうか難しい立場にある。従って現在の彼にとって、クラスに来られる時間は貴重であるという事は、彼自身が一番自覚している。今までの殆どの課題でトップを取り、冗談好きで皆を笑わす反面、プライドが高く、難しい面を持っている彼。しかし最近になってやっと、彼の親分肌的な面に私も気付いた。

ペマの問題が一刻も早く解決し、プログラムが続けられる事を私は心より願っている。

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「マダム、離婚はいけません」 Aug3rd, 2006

「マオンパ」には、現在二人のプログラム終了生が、指南役としてプログラムに残り、第二期生の指導にあたる傍ら、師匠からの指導を受けながらブータン国内外から「マオンパ」へ来る注文品を製作している。その一人が、ジャニーズ系のキリリとした顔立ちのドルジである。彼は、ブラ(野性絹)の織物が盛んなタシガンという東ブータンの出身である。彼の村にはまだ電気が来ていない。夜になると村全体が真っ暗になり、満天の星空が広がる。家の中では杉の木ぎれを燃やし、それを灯りとし、家族が談笑にふける。

去年、プログラムが始まったばかりの時、ある事情があり、彼は村に一時帰省しなければならなくなった。帰省と言えば簡単に聞こえるが、首都ティンプーから彼の村まで、バスで3日、そして一番近い道路からは数日歩かなければならない。問題は解決し、その後プログラムに戻る事が出来たのだが、その時既に彼は3週間、他の生徒に遅れをとっていた。「マオンパ」の授業はブータンのスタンダードでは考えられない程、ハードであり厳しい。しかし彼は、努力を重ね、才能も手伝い、プログラムが終わった時点では、クラストップで卒業した。

ドルジと私は「マオンパ」をどう盛り上げていくかについてよく話しをする。今日もどういう風に「マオンパ」のコンタクトの輪を広げていくかについて話していたらドルジが、「マダム、ブータンにはいつまでいるんですか?」と聞いてきたので、「ん〜、離婚するまでかな。」と冗談を言ったら、ちょっと離れた所でミシンに向かっていたニーとテンジンが真剣な顔をして振り返った。予想しなかった彼らの反応に思わず私がタジタジになり、「えっ、あの〜冗談のつもりだったんだけど。」と言うと、安心した様な表情をし、二人は又ミシンに向かった。「マダム、離婚はいけません。」隣のドルジがドスを利かした低い声で、私に説教し始めた。「マダムは、娘さんに寂しい思いをさせたいのですか?日本とブータンを行ったり来たりしなければならなくしたいのですか?」「あの〜、だから冗談なんだってば。。。」しかし、ドルジの説教はしばらく続いた。いつもは温和で、しかもシャイな彼なのだが、この時ばかりはちょっと彼の雰囲気が違っていた。説教中、私と目を決して合わそうとしない所に、彼のシャイさが出ていたが。。。

ドルジ、彼は将来とても責任感のある頼もしい父親になると思う。

これから少しずつ、現在のマオンパのメンバーについてエピソードを交えながら紹介していきたい。

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「ブータンの民族衣装について」 Aug, 2nd, 2006

今日はちょっと真面目な話。ブータンでは、公共の場で民族衣装着用の義務がある。イスラム圏によくみられる宗教上の理由からの着用では無く、中国とインドという大国に挟まれた小国ブータンの、国家アイデンティティを保つという、生き残りをかけた国家政策上の理由からである。「ブータン人としての誇り」が民族衣装によく表れており、海外で勉強しているほぼ100%に近いブータンの若者達は、自発的に民族衣装をスーツケースに詰め、旅立って行く。

しかし、1999年に解禁になったテレビの影響は多大であり、特に首都ティンプーでの若者達の服装は様変わりしつつある。ここらで何とかしないと日本の着物の様に伝統文化としては残るが、日常的に着るという習慣は廃れていく様に私は思う。

人の美に対する価値観というものは、その時代の流れを反映しており、その時に美しいと思われても10年後、100年後には全く別のものを美しいと人は感じる。流行というものはその象徴的なもので、短期間でその対象が移り変わっていく。民族衣装というものはそれとは対照的に、時代が変わっても変わらないものの象徴なのだが、ある程度のフレキシビリティが無いと日本の着物の様に生き残れない。従って、大きな枠組みでは変わらない範囲での、ある程度の変化があってこそ、民族衣装として生き残れるのではないかと思う。

ブータンの女性の民族衣装で言えば、「テゴ」というジャケットの様な上着があるのだが、以前はこの前部分を閉めずに開けており、ジャケットというよりは「一枚上に羽織る」という様な感じで女性達は着ていた。しかし今殆どの若い女性達は、前部分をブローチやピンで止めており、テゴの前が開いていると「田舎者」とか「古い世代のファッション」と見られる。聞いた所によると、このブローチを使ってテゴの前部分を止めるというのは、現国王妃がし始めてから流行り出したファッションらしい。

ちなみに、「マオンパ」でも新しいデザインの民族衣装を少しずつプロデュースし、王家の方々もオーダーをして下さっている。脈はあるかも(笑)。

「マオンパ」が生き残る為には、正にこれからの宣伝次第である。

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「切っ掛けは、」 July 30th, 2006

切っ掛けは、単純な事だった。

「ブータンってなかなか来られる所では無いから、お前の日常を知りたい物好きが日本にいるかもよ。」

学校が終わって、お昼を食べている時の主人のたった一言に、「その手があった!」と思わず叫び、コンピューター嫌いの私を奮い立たせた。

 私は現在「マオンパ」というグループに属し、ブータンの伝統工芸学校に通っている。「マオンパ」というこのグループは去年から始まったブータンでの新しい試みで、ブータンの伝統織物を使い、モダンデザインの作品を作っていこうというものである。師匠は、私の親友フォンというベトナム人のプロのデザイナーで、彼女がこのプロジェクトをボランティアで去年立ち上げ、一期生を見事育て、卒業させた。しかし、ブータンの公用語、ゾンカで「将来」と言う意味の「マオンパ」なのだが、プロジェクトの存続という観点から言えば、はっきり言って「将来」はちょっと危うい。現在二期生のカリキュラムが始まったばかりなのだが、このグループの宣伝をし、もっと知名度を上げていかないと、ブータンでよくあるプロジェクトの様にこのグループも消滅していく様に思う。と、いうわけで今回このミクシーのコミュ二ティーを利用し、「マオンパ」の宣伝も兼ねて、勝手、気ままに私が思っている事を書いて見る事にした。将来、読者の方が私達の作品を見る機会があった時、「おっ、あのサンゲーの作品か」とか「あ〜、あのドルジが作ったんだ」とか思ってくれたら、ちょっとニンマリである。

 さて、何から書こうかな〜。

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